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いろんな名前を持つということ

photo by Alan O'Rourke

 名は体を表すということわざがある。ネットで意味をひくと、「名前は、その物や人の性質や実体をよく表すものだということ」と書いてある。これはなんとなく共感ができるのではないかと思う。この人って○○って名前のまんまだよね、みたいな人が身近にいることは珍しくない。ワンピースの主人公がモンキー・D・ルフィではなくて波平だったら、なんか海賊王にはなれないなと思ってしまう。

 ただ、名前がその人の性質を表すものだとしたら、疑問が浮かんでくる。たとえば佐藤さんはみんな佐藤さんの性質を持っているのだろうかとか、幸福さんという名前だったらみんな幸せな人生をおくることができるんだろうかとか。ずっと前に探偵ナイトスクープで、なんという名前か忘れたけどものすごい金持ちそうな名前の人が同級生にいて、今どうなっているか知りたいので調べて欲しいという依頼があった。探してみたらまったく普通のおじさんだった。

 名前をつけるということは、なにか抽象的なものごとを具体的ななにかに昇格させるということだ。木にたくさんなっているリンゴのうちのひとつに、太郎という名前をつけた瞬間に、それはちょっと表面に傷のある熟したばかりのリンゴではなくて、太郎という個体になる。名前がなければ、たとえそれが人間であっても、(どこそこで産まれた)赤ちゃんという抽象的なものでしかない。それでは具合が悪いので、名前をつける。たいていは、こういうふうになってほしいという希望や、こういうふうになりそうだという予想を込めた名前をつける。ときには、次男だから次郎というように半ば機械的につけられることもある。実体がどうであるかはこの時点ではわからない。だから名が体を表すなら、実体が名前に従ったことになる。

 なにかを作ることを生業としている人は、名前をつける必要にせまられることが多い。作曲家は曲に名前をつけるし、小説家はタイトルに名前をつけ、登場人物のひとりひとりに名前をつけなくてはいけない。プログラマーは、自分が作ったプログラムやファイルに名前をつけるどころか変数のひとつひとつに名前をつけている(そしてそれは面倒くさくなってときどきtmpとか変な名前になる)。そのひとつひとつが名前に従って運命を決められるなら、とんでもなく荷が重い任務だ。ただこういった場合は大まかに対象となる実体がすでに決まっていることが多い。だからそれにふさわしい名前をつける。登場人物がやくざなら極流会の花岡とか、動画編集ソフトならなんちゃらビルダーとかなんちゃらメーカーとか、そういう名前がつけられる。

 名前を決める要素はだいたい以下の4つとなる。これらを総合してふさわしいものを考えることになる。

  • 語感:読んだときにどう聞こえるか。濁点が入ると強そうに聞こえるとか。

  • 表記:書いたときにどう見えるか。ときどき、語感がよくても書くとバランスが悪いことがある。

  • 意味:その名前が持つ意味

  • 連想するもの:ロロノア・ゾロという名前からは怪傑ゾロや剣を連想する。文化に依存することが多い。

 小学生のとき、国語の先生がわたしの亮という名前を褒めてくれたことがある。なぜかはよくわからなかったが誇らしかったので、母親になぜ自分の名前をこれにしたのかと尋ねたら、田村亮が好きだったからと答えた。ロンブーじゃなくて田村正和の弟のほうだ。そんな安易な名前をつけられたのかとわたしは落胆して、それ以来自分の名前は好きではなくなった。数年前に中国にいったときに、同僚の女性に、亮という字は高いところで汚れなく明るく光るという意味だと教えられた。「亮月」ということばは、月が明るく光っているという意味で使われる。自分の名前の持つ意味を30何歳にして初めて知った。ただあなたの名字は家の内側という意味だから、家の中で部屋を明るくして引きこもっていることですねとその女性は付け加えた。

 中国では、大学を出た多くの人が中国の名前とは別に、英語圏で使う名前を持っている。クリスティーナとかマイケルとか、自分で勝手につけている。わたしは亮という名前だから、リックという名前にしてはどうかと提案されたこともある。さすがにリックと名乗ったことはまだないが、発音が難しいので英語圏の人に名前をいうと必ず聞き返される。たとえ通じたとしても、Ryoという名前が指すわたしと、亮という名前が指すわたしとは違う。それはAppleとりんごくらい違う。Appleというのは赤くて表面がつるつるした果物で、りんごはすこしざらついた、日本の東北地方を連想させるものだ。日本人がもつ黒澤明という人と、外国人がもつKurosawaという人とは違うパーソナリティを持っていると思う。名が違うなら、体が違って当然だからだ。同じように、父親がわたしを呼ぶ亮という名前の人間と、同僚が呼ぶかどやさんという人間も違うだろう。名前によって実体が変わるのではなく、その名前の属性を持つものとして、「他人が」個性を認識しているにすぎないのだと思う。そういう意味では、個性も名前もひとつでなくていい。

 いいたいことはというと、産まれたときから、ジョージとか海外でも通用する名前にしようなどと考えないでいいと思う。本人と家族にとって、こんなふうになってほしいという思いを込めて名前をつけたら、そのあとどこで、どんな名前で呼ばれるかは、呼ぶ側が決めてくれるだろうから。これからは仕事と同じように名前も複数持つのが当たり前になると思う。


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