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他人のオールで船をこぎはじめたおばさんと、たまらずそれを追いかけたおばさんの話

 この前、海外出張から帰った帰りに、ひとりで家の近所の寿司屋にいった。寿司屋といっても回転寿司ではないがチェーンのよくある店で、値段が安いのでよく利用している。時差ぼけでとても疲れていたけど、ハンバーガーばかり食べていたので、ビールと寿司の誘惑に勝てなかった。さっと食べたら、すぐ帰って眠るつもりだった。

 自分はカウンターにいて、うしろのテーブル席におばさんがふたり座っていた。けっこう酒がすすんでいたのか、声が大きくて話している内容がつつぬけだった。それでも、特に気になるというほどでもない。ふたりは職場の同僚らしくて、はじめは新しく入ってきたなんとかさんの教育がどうのとか、残業がどうのとか、お互いがよくある苦労話をしていた。おばさんのうちひとりは甲高い裏声でしゃべる人で、なんとなく発言も控えめな感じだった。もうひとりのおばさんは場末のカラオケスナックにでもいるようなひどいダミ声で、どちらかというとこちらの人のほうが立場が上のように思えた。ちなみにわたしはこのふたりの顔を一度も見ていない。時差ぼけでもうろうとした脳内で声だけを聞いて作り出された印象なので、本当のところはわからない。

 しばらくすると、ふたりは「しょちょう」なる人の悪口を言い始めた。おそらく所長なのだろうとは思うけど、もしかしたらふたりは婦人警官で相手は署長だったのかもしれない。でもとりあえず所長としておく。とにかく、所長はぜんぜんわかってないという話をしていた。もうあの人になにいっても無駄なのよね、ほんと。飲みの席で上司の愚痴をいうのもよくある話だ。職場に不満がない人間などいない。裏声のおばさんは、所長のやり方に我慢がならないというようなことをいった。それをきいて、ダミ声のおばさんはいった。

「わたしね、『適当』っていう言葉が好きなのよ。適当にやりますっていうのは、手を抜いてやりますっていうことじゃないのね。ちょうどよくやるっていうことなのよ。それからね、わたし、『いいあんばい』っていう言葉が好きなの」

「——あのね」

 おそらく、ダミ声のおばさんは上の立場の人間として、仕事に対するスタンスだとか、そういうアドバイスをしたかったのだろう、ところが、裏声のおばさんは、その声をさえぎるようにしていった。ダミ声のおばさんはまだなにかいい足りなかったようだけど、発言を裏声のおばさんにゆずった。

「あのね、あんばいっていうのは、塩と梅って書くのよね。梅っていうのは梅酢のことなの。つまりどういうことかっていうと、味加減をちょうどよくしましょうっていうことなのよね。すごくいい言葉だと思うの。わたし、『いいあんばい』っていう言葉が好きなの」

 ダミ声のおばさんは呆気にとられていたようだった。今まで、塩梅の話をしていたのは自分だったのに。しかもほとんど同じ内容を繰り返しただけだ。わたしも、裏声のおばさんの突然のインターセプトに、振り返って様子を見てみたい衝動をどうにか抑えた。

「わたしも好きよ?」

 店内に響きわたるほどのダミ声で、おばさんはいった。『いい塩梅』という言葉が好きなのは自分のほうなのだと誇示するようなダミ声だった。

 炙りしめ鯖を食べたら、帰って寝ようとわたしは思った。