人生を左右したかくれんぼの話

 人生を左右するできごとというものがある。

 初めて自分のパソコンを手にしたのは、1985年、小学校3年のときだった。マイコン電児ランという漫画に触発されて、人気に火が点いたばかりのファミリーコンピューターを友達に5千円で売りつけて処分し、祖母にパソコンを買ってくれと頼んだ。祖母はわたしが欲しがっているものがなんなのか、まったく理解できていないようだったが、毎日のようにねだったのと、英語の勉強ができるというもっともらしい言葉に根負けして、数ヶ月後にじいさんの目を盗んでこっそり貯めたへそくりでわたしにパソコンを買ってくれた。買ってくれるまでの数ヶ月間、わたしはマイコン電児ランの単行本のふろくとしてついてあったキーボードの写真を持ち歩いて、かたかたかたとかいいながら人前でタイピングの練習をしていたが、その練習はまったく役にはたたなかった。

 買ってくれたのはナショナルのキングコングという名前のついたMSX機で、確か5万いくらかだったと思う。本当はNECのPCシリーズとかX68000とかそういうのが欲しかったが、20万以上で手が出せなかった、というか出してもらえなかった。当時MSXがなかったら、わたしはこんな仕事をしていないかもしれない。わたしは毎日のようにBASICマガジンに投稿されたプログラムをMSXに打ちこんで、楽しんでいた。つくったプログラムが動かないといってナショナルのお店に持って行ったら、店の主人が故障かもしれないといって新品に交換してくれたこともあった。新品のパソコンでもつくったプログラムはやはり動かなかった。そこでわたしは初めて、プログラム言語に種類があるのだということを知った。

 当時、わたしは兄と、祖父母の4人で暮らしていた。祖父母は松山の商店街の一角で旅館を営んでいた。じいさんは元警察官で剣道6段の厳格な人だった。わたしたち兄弟も、毎週2回、道場で剣道を習っていた。わたしは道場に行くのが大嫌いだった。冬は寒いし、防具は重い。稽古して強くなりたいという志もまったくなかった。道場で竹刀を振るよりも、家でプログラムを書いているほうがよかった。そこで、わたしはある日決心して、剣道にはいきたくないとじいさんに告げた。ちょうど稽古がある日の、じいさんと兄が身支度を始めたころだった。

 じいさんは、おもちゃクラッシャーだった。わたしがなにかおもちゃに熱中していて騒いだりすると、そのおもちゃを旅館の玄関の床に叩きつけて壊すのだ。お年玉を貯めて買ったアスレチックゲームも犠牲になったばかりだった。アスレチックゲームはプラスチックの筐体が派手に割れ、玄関に破片が飛び散って客の靴に入り、祖母が謝っていた。わたしは大切なパソコンもクラッシャーの餌食になるのではないかと怯えたが、さすがに大事にしていたことはわかっていたのだろう、怒るというよりも呆れたという面持ちで、黙って話をきいていた。代わりに激怒した人がいて、それは兄だった。たぶん、兄も本当は剣道に行きたくなかったのだろう。兄はヤンキーになり始めのころで、小学生なのにパンチパーマみたいな友達がいた。ヤンキーの世界では抜け駆けは許されない。その前の日に、わたしは兄の部屋で勝手にロードランナーをしていたのがばれてぼこぼこに殴られたばかりだった。

 それからどういう交渉をしたのか、まったく覚えていないのだけど、兄はこういった。わかった、じゃあお前はこれから家の中の好きなところに隠れろ、と。30分以内に兄がわたしを見つけたら、おとなしく剣道にいく。見つけられなかったら、剣道をやめてもいい。なにを試されているのかよくわからない条件だが、とにかく兄は譲歩した。わたしはそれをのんだ。

 わたしたちが住んでいた旅館は、4階建てで、増築した離れがあったが隠れていいのは客間のある建物だけという条件だった。今になって考えてみると客はいい迷惑だ。客がいたのかどうかは覚えていない。客間は1階あたり4室あった。

 兄がスタート、と叫ぶのと同時に、わたしはダッシュした。

 旅館には、隠れる場所はいくらでもある。押し入れでもいいし、やろうとすれば天井裏にも隠れられる。布団の倉庫に入ってもいい。ボイラー室や屋上もある。わたしはさんざん迷ったすえに、あえて3階の大広間に隠れることにした。大広間のすみに、座布団が重ねられてあるのを見つけた。といっても高さはせいぜい50センチくらいだ。わたしは直感的に、ここがいいと思った。座布団の奥に身を縮めて、息をひそめた。

 しばらくして、兄の足音が聞こえた。客室をまわって、わたしを探し歩いているようだった。押し入れを開ける音。大広間の電気がつく。障子をあける音。わたしの鼓動はおそろしく早くなっていった。もし見つかったら、剣道に行かされるだけではない。確実に兄に鼻血が出るまで殴られ、蹴られる。パソコンはじいさんにクラッシュされる。これは自由を得るための戦争だった。

 兄は何度か大広間に姿を現した。しだいに、明らかに苛立ってきているのがわかった。扉を開け閉めする音が乱暴になり、でてこいやーコラァみたいな高田延彦ばりの怒号を発するようになった。すぐそばに兄がいるのを感じた。自分がいる斜め後ろの押入れを開けて、布団を一枚一枚めくっているようだった。わたしは怯えながら必死に体を小さくして、見えませんようにと祈った。そして、ついに見つかることはなかった。

 長い時間が過ぎたあと、あいつほんとにおらんけん、剣道いってくる。無念そうな兄の声を聞いた。それから十分時間をおいて、わたしは一階におりていった。兄とじいさんはすでにいなくて、祖母だけがにこにこしてわたしを待っていた。よう隠れたな、あんた。その言葉をきいて、わたしは誇らしく思った。

 それから、兄は、わたしにどこに隠れていたのかきくことは一度もなかった。兄はそれからしばらく剣道に行っていたが、本格的にヤンキーになったので中学に入る前にやめた。条件はとくになかったみたいだ。わたしは好きなだけパソコンをすることができた。

 あのときかくれんぼに勝ててほんとうによかったな、と思う。