ベッドの下の男

床下にいる男の小説を書くと宣言してから、ずいぶん時間がたってしまった。放置していたわけではなくて、ちゃんと考えていた。考えていたけど、書けなかった。最初は床下にいる男の話を1週間で20ページくらい書いてブログかなにかに公開するつもりだったけど、話がまったくまとまらなかった。結局60ページ書くのに半年もかかったしまった。そしていざKDPで公開しようと思ったら、Amazonでは無料本を公開することはできないということがわかった。そんなわけで、最低価格の99円で販売することにした。無料を期待してくれていた方がもしいたら申し訳ないので、明日から5日間無料キャンペーンを実施するとともに、一部をこのブログで公開させていただく。

なぜ書けなかったかというと、真下に男がいたら面白いなというただそれだけの着想から始まったのだけど、ブログに書いてしまったせいでその制約に縛られてしまったからだ。わたしは約束は守らないと気持ちが悪い性格だ。なんども別の話を考えよう思ったのだけど、どうしてもこれを書かないと気が済まなくなった。わたしは基本的にオカルトが苦手だ。ホラーとか奇譚といったものは大好きなのだけど、話が超常現象で片付けられると、とたんに興ざめする。最初は、少女を主人公にするつもりだった。なぜかいつも寝ているときに床下に男がいて会話をするという設定だった。それだとどうしても男はこの世のものではないことになってしまう。なんとか男が床下にいる理由をこじつけようとしたのだけど、無理だった。コンクリートの中に潜り込める人間はいない。諦めかけていたら、男の主人公にしたらどうかという着想が浮かんだ。そこから構想がまとまるのはわりと早かった。海外出張とか書く時間が取れなかったこともあり、意外と時間がかかったけど、いい具合に不条理でチープで愉快な作品ができたと思う。

これでようやく次のことに取りかかれる。

ベッドの下の男

ベッドの下の男

ベッドの下の男

 東雲さん、と声をかけてきた若い男は、ここいいっすか、といって、返事もまたず隣のスツールにまたがった。わたしは思わず時計を見た。九時二〇分。約束の時間にはずいぶん早い。奇遇ですね、よく来るんですかこの店。ダークスーツにノーネクタイ。顔が小さくてたまごのように白い。よく見るとフランク・ミュラーの腕時計をしている。わたしは反応に迷った。わたしは他人の顔を覚えるのが極端に苦手だ。仕事で関わったクライアントの顔もほとんど覚えていない。赤ん坊のころからおしめを替えてくれたり歌を歌ってくれたりしてわたしが十一歳になるまで家にいた家政婦の顔を覚えていなかったこともある。若い男は、僕のこと知らないっすか? と眉をしかめた。

「知らないな」わたしはスコッチのグラスを傾けた。アイラモルト特有の、ピートの香りが鼻を刺激する。

「丸子っす」話を聞くに、彼はうちの会社の営業に配属された新人らしかった。わたしは都内の広告代理店に勤めている。毎年何十人も入ってくる新人の顔など覚えているはずがない。

「こんなところで会えてうれしいなあ。ぼく東雲さんのファンなんですよね。うちのエースじゃないですか。こないだの地下鉄のラッピング広告、すごかったです。あのコピー、東雲さんが考えたんですよね。『放課後はジャーニーしよう!』ってやつ」丸子は旅行会社とのタイアップで最近デビューしたアイドル歌手のキャッチコピーを唱えた。うちで手がけたものだが、わたしが考えたものではないし、出来も最悪だ。

「めんどうくさいな」

「は?」

「きみは、ひとり?」

「そうっす」いや、いままで合コンだったんですけど、つまんなくて抜けてきちゃったんすよね。よかったらおれの代わりにいきます? 残念なのしかいませんけど。丸子はそう続けた。

「おれに、居酒屋にいって不細工な女に手拍子されながらゲロみたいにまずいチューハイを一気のみしろといってるのか」

「いや、そこまでは」

「遠慮する。約束があるんでね」わたしはもう一度、腕時計を見た。会話を切りあげたつもりだった。いまさら若いやつらの合コンにいって得るものはない。

 丸子は動かなかった。口元に笑みを浮かべたまま、こちらを覗きこむ。

「東雲さん、こんな話、知ってます?」

 不躾な男だ。わたしは怪訝さを隠さなかった。

「ある女の子がね、春から大学に入学したんです。それまで徳島だかの実家で暮らしてたんですけど、上京して、ひとり暮らしを始めたわけです。もうだいぶ東京の暮らしにも慣れてきまして、それでもまだ渋谷はハチ公口から出ないとわかんないみたいな」

「なんの話をしているんだ」

「ある日、大学の友達がマンションに遊びに来たんすよ。ビールとか飲んでみたりして、夜もふけてきたもんだから、自分はベッドに寝て、友達は床に布団を敷いて寝てもらうことにしたんですね。ほら、自分のベッドってあんま他人に使わせたくないじゃないですか」

「それはわかるな」

「電気を消そうとしたら、友達がとつぜんコンビニに行きたいっていうんですね。これからもう寝るっていうのに、どうしてもシーマヨのおにぎりが食べたいからいっしょに来てくれって。女の子はもう眠いから寝ようっていうんだけど、あんまりしつこいから、服を着て外にでたんです。コンビニに向かうのかと思ったら、コンビニとは反対の道を歩いていって、どこいくのって訊いたら、友達が交番の前で立ちどまって、こういったんです」

 丸子はそこで間をおいた。

「ベッドの下に包丁を持った男がいて、こっちを向いて笑ってたって」

「なるほど」わたしはスコッチを舐めた。

「怖くありません?」

「べつに。よくある都市伝説だな。そろそろよそへ行ってくれないか」わたしは苛立った。

「東雲さんて、そのベッドの男のイメージにガチではまるんすよねえ。なんか渋いし。あ、気を悪くしないでくださいね。おれ実は、趣味で友達といっしょに動画の撮影をやってて、なんていうのかな、ハプニング映像っていうか、そういうちょっと怖い話が実際に起きてるとこを撮影して、動画をユーチューブにあげるんすよ。これがけっこうネットで評判よくって、こないだなんか病院の駐車場で、血まみれの外科医が一般人を追いかけるっていう動画を撮ったら、ものすごいアクセスでびびりましたよ」

 丸子はこれなんですけど、といってスマホを取り出すと、アプリを立ち上げて動画を再生した。薄暗い通路をサラリーマン風の男が歩いている。遠くから隠し撮りした映像のようだ。男の脇にバンが停まり、中から青い手術着を着てマスクをした別の男が現れる。手術着の男がアップになる。胸のあたりには黒っぽい染みがべったりと付着している。先端にドリルのような尖ったものが取り付けられたT字型の器具を手に持っている。明らかに不審な人物に気づいたサラリーマン風の男は身構えるように体を硬直させ、様子をうかがっている。視線をバンに向けた瞬間、手術着の男が地面を蹴って走り出した。サラリーマン風の男はなにかを叫んで体を反転させ、必死の形相で逃げようとする。手術着の男がドリルを持った手を振りあげて追いかける。映像はズームアウトして、そこで終了した。

「悪趣味だ。追いかけた人は怒らなかったのか」

「ものすごい怒りましたよ。三時間も土下座してやっと許してもらいました」

【「ベッドの下の男」より抜粋】