ミステリ好きなら「紙の月」は観たほうがいい

「紙の月」という映画を観た。原作は読んでいないが、かなり話題になった作品でNHKでドラマ化もされているらしい。最近ヨルタモリで宮沢りえを見る機会が増えて、すっかり大人の女優に変貌した宮沢りえが横領犯を演じるというので興味を持った。そういえば彼女の主演作は「スワンの涙」くらいしか見たことがない。

映画のあらすじは、前もって聞いていた。派遣社員として銀行に勤める主人公が、男に溺れて会社の金を横領するようになり、身を滅ぼしていくというものだ。これだけを聞くと、ありきたりなストーリーといった印象をぬぐえない。そして映画を見終わったあとも、ストーリーの展開が大きく裏切られることはなかった。つまり最初からおわりまで、物語の顛末はある程度「見えて」いる。それなのにこの映画が観客を飽きさせないのは、主人公を取り巻く、まわりの登場人物の存在が際立っているからだ。銀行員という仕事に忠実で不正を許さまいとする先輩社員、自分の願望のままに生きる奔放で抜け目のない同僚、資産はあるがそれぞれに悩みを抱える銀行の顧客たち。特に小林聡美と大島優子、石橋蓮司の演技が素晴らしい。それぞれの利害が組み合わさって、主人公を破滅に導くドラマが生み出される様子は、群像劇を見ているような錯覚を覚える。

ただ、わたしは最初、主人公が男と深い関係になって横領に手を染める動機が、どうしても共感できなかった。事前に夫とのすれ違いといった背景は描かれているものの、あまりにも唐突な気がしたからだ。

物語というものは、基本的に登場人物がなにかを「求める」ことで進行するものだ。登場人物がなにも求めなければ、物語として成立しない。動物は食欲や睡眠のような生きるために必要な欲求しか求めないので、動物を登場人物とした物語というものは成立しない。わたしは若いころ推理小説ばかり読んでいたので、物語を面白くするのは謎とトリックだと信じていた。大学生のときに初めて書いた小説を賞に応募したら、受賞はできなかったが雑誌に名前が掲載されて、アイデアは面白いが話が恣意的すぎるというコメントが添えられてあった。そこで初めて、物語には登場人物の「求めるもの」を動機づけることが必要なのだということを知った。大脱走のスティーヴ・マックィーンは収容所から脱出することを求めるし、インディー・ジョーンズのハリソン・フォードは古代遺跡を発見することを求める。主人公だけでなく、脇役たちもなにかを求めている。だから利害が衝突し、ドラマが生まれる。「求めるもの」のパターンは金、愛憎、復讐、友情、健康、名声、幸福、家族、正義、仕事など無数にあるが、見ている人が共感できるものでなくてはならないのがルールだ。主人公の動機が曖昧なまま物語が進行すると、見ている人は置いてけぼりをくらったような気分になる。今回も途中までそういう思いで見ていた。まわりの登場人物は「求めるもの」が明確なのに、惜しいな、と。それでも宮沢りえの清楚なたたずまいを保ちながら不正に手を染める危うい演技は見事だし、恋人役のMOZUの人も主人公を堕落させるに十分なだらしなさと純粋さを醸しだしている。だから主人公の動機に共感できないことはしこりとしては残ったものの、致命的に気になるほどではなかった。しかしそのしこりのようなものも、最後の20分で大きく打ち砕かれることになる。

主人公の「求めるもの」が明らかになったとき、それが金でも単純な愛欲でもなかったことがわかる。同時に金持ちの顧客が身につけていた偽物のアクセサリーや冒頭のシーンの伏線も回収される。これはもう鮮やかな手口というしかない。そして主人公はすべての顛末が最初からわかっていた映画の最後になって初めて、意外な行動を取る。このときになって、観客は「見えて」いた物語の顛末が、本当は「見せられて」いたということに気づく。

エンディングの余韻を残したまま、エンドロールにはヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「Femme Fatale」が流れていた。タイトルを直訳すると「宿命の女」。こんなにこの映画にふさわしい曲はない。よく曲を使う許可が取れたものだと思う。ルー・リードの気怠い歌声を聴きながら、久しぶりにいい日本映画を見たなと思った。

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