経験しなくても得られるもの(1)

荒木飛呂彦の「変人偏屈列伝」という短編集の中に、「ウィンチェスター・ミステリー・ハウス」という作品がある。

変人偏屈列伝 (愛蔵版コミックス)

変人偏屈列伝 (愛蔵版コミックス)

銃の事業で成功した実業家の未亡人が、ライフルで殺された人々によって屋敷が呪われていると信じ、霊から逃れるための通路を作るために彼女が亡くなるまでの38年間、増築をし続けたという実話に基づいた物語だ。現在もこの屋敷はアメリカのサンノゼに存在しており、観光客向けに開放されているらしい。わたしはこの屋敷に興味があって、いつか訪れてみたいと思っていた。

先週サンフランシスコに行く機会があった。仕事の出張で行ったのだが、予定の都合でひとりで丸一日オフになってしまった。なにをしようかと考えていたら、ウィンチェスター・ミステリー・ハウスのことが頭をよぎった。実はサンノゼには2度訪れたことがある。そのときはウィンチェスターがサンノゼにあることを知らなかったし、仕事が目的だったのでまったく意識することがなかった。調べてみると、サンフランシスコからサンノゼまでCaltrainという電車がでているらしい。行こうと思えば行けるということだ。外国でひとりで電車に乗って遠出をすることには不安があるが、何年も前から行ってみたいと思っていた望みが突然叶う機会が転がり込んできたとなれば、行くしかない。

モーテルからバスに乗ってAT&Tスタジアムの近くにあるCaltrainの駅まで行って、券売機でサンノゼまでのワンデイパスを$18で購入した。サンノゼまでは片道1時間半。アメリカは車社会なので、本数は多くない。1時間に一本くらいしか出ていないようだったが、運良く電車はすぐにやってきた。乗り込んだのは午前11時だった。電車は無骨な2階建ての車両で快適だった。乗客はそんなに多くない。車窓から西海岸の日差しが差し込んでくる。

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スタンフォードやマウンテンビューを抜けて、昼過ぎにサンタクララの駅についた。なにか食べようと思ったが付近には店らしきものがなかったので、バスストップを探した。60番のバスにのってウィンチェスターに行くということはすでに調べてわかっていた。60と書かれたバスが見えたのでそっちに走っていって、乗り込んだ。サンフランシスコの市内バスと同じように、乗車前に$2を払うシステムだ。車内に備え付けられてあった路線図を手にとった。しばらく眺めていると、どうやら反対方向のバスに乗ってしまったらしいということに気づいた。すぐに降りればよかったのだが、躊躇した。なぜかというと、さっきのバス代で、1ドル紙幣を使い切ってしまったからだ。前にサンフランシスコの市内バスで5ドル紙幣で払おうとしたら、乗せてくれなかったことがあった。現地の人はSuicaみたいなカードを持っていて、現金で払う人は旅行者くらいのようだ。どこかで1ドル札を調達しないといけないのだが、面倒くさくてしばらく窓越しにインテルのオフィスビルを眺めたりしてそのままバスに揺られていた。ここはマイクロソフトやフェイスブックといったIT企業がオフィスを構えるシリコンバレーだ。感慨にひたっている場合でもないと思って、運転手にこのバスはウィンチェスターに行きますかと聞いたらきっぱりとNo、といわれて、バスから降りた。

降りた場所はフリーウェイ傍の、駅よりもさらになにもない殺風景な場所で、途方に暮れた。通行人の女性に5ドル札を両替してくれないかと頼んだが、断られた。反対側のバス停でバスを待っている男性にも声をかけたが、やはり断られた。仕方がないので、あなたが同じバスに乗るのであれば、この5ドル札をあげるから、自分の分の運賃も払ってくれないかと頼んだ。だめだという。車内でデイパスを買えるからそれを買えばいいというが、いくらするのかと聞いたら$6だと答えた。だからおれは細かいのは持ってないんだといったがその男性は悪いが力にはなれないみたいなことを大げさなジェスチャーでいった。わたしは英語がそれほど堪能ではないし日本人らしく空気を読むことを美徳とするタイプなので、関わりを避けたがっている見ず知らずのアメリカ人にものを頼むのは心苦しいというよりも苦痛だったが、頼むからこの5ドルでわたしの分も払ってくれともう一度いった。相手はあそこの券売機でデイパスが買えると通りの向こうを指さした。時刻表を見るとバスはもう2分くらいで到着する。買い方が分からないのでバスに間に合わないと告げると、男性は根負けしたのか、もうわかったと券売機に連れていってくれて、デイパスを買ってくれた。その直後にバスが見えたので、ふたりとも走ってバス停に戻らないといけなかった。わたしは男性に礼をいった。その親切なアメリカ人は決してフレンドリーではない笑顔を浮かべて、東洋人の感謝の言葉を聞いていた。

それからまたバスに揺られて、降りるバス停を間違えて歩いて、ようやくウィンチェスター・ミステリー・ハウスに到着した。モーテルを出発してから4時間半経過していた。

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ガイドツアーは何種類かあるらしかった。建物の屋内のもの、屋外と地下室のもの、それからふたつを合わせた2時間半のツアー。2時間半もいるともう夕方になってしまって帰れるかも怪しいので、屋内の1時間のツアーを申し込んだ。$33くらいだったと思う。売店でなにか買おうと思ったが、ツアーはもう始まってしまうらしい。

ガイドのおじさんがあんたは何語を話すのかというので日本語だと答えたら、日本語の翻訳があるという。20名ほどの客といっしょに、ガイドツアーが始まった。撮影は禁止だというので写真は撮れなかった。建物の中はなぜか下向きに取り付けられた窓やら細長くて入りくねった階段やら、開けると壁しかないドアやら、漫画で見たとおり興味深いものがあったが、総じて感想をいうと、やたらと広い昔の西洋屋敷のツアーといわれればそういうものだった。建物が特殊という意味でもいわくつきという意味でも、日本の天守閣とそう変わったものではない。ツアーが半分くらい終わったところで、おじさんが、あーそういえば翻訳忘れてたといってどこからか日本語のガイドが書かれた本を持ってきてくれた。わたしは朝からなにも口にしていなかったので水でもいいから飲みたかったし、時差ぼけもひどくて屋敷の中を歩き回るのがだんだん辛くなってきた。

ふらふらとついてまわっているうちに、ツアーは終わったようだっあ。ガイドは本を返せといってきた。わたしはくれるのかと思っていたのでほとんど目を通していなかった。

続きます。