高校三年のときに天の声をきいた話
子どもというのは、自分が特別な存在だと思うものだ。父親は車の運転がうまいときけば、F1レーサーと肩を並べるくらいだと信じるし、うちの祖先は地元の有力者だったときけば、徳川家とかそういう家系の血が流れていると信じることもできる。なんか指に妙なできものができたりすれば、これは自分が特別な証なのだと信じたりもする。そして大人に近づくころに、自分がなにものでもないことにようやく気づく。
それが自分だけでないことを祈るけど、わたしは子どものころ、根拠のない万能感みたいなものを持っていた。強く望めば、すべてのことがうまくいくという自信だ。そして実際にたいていのことはうまくいった。勉強ができなくて困ったことはなかったし、失敗してはいけない場で失敗したこともなかった。なくしたものがあれば強く望めばすぐに見つかった。思い出すとどれも特別とすごいというわけでもない。ほかには部屋でいやらしいビデオ(DVDはまだなかった)を見ていたときは誰かが入ってくる前に必ず危機を察知することができたが、これもどうでもいいエピソードだ。
大学受験を控えた高校三年になっても、志望の大学には100%合格するつもりでいた。6歳しか違わないわたしの母親は三者面談でもただにこにこしているだけでまったく受験には興味がなかったから、県外まで受験しに行きたいともいえずセンター試験だけで受けられる国立の大学を受けることにした。ものすごく偏差値の高い大学を志望していたわけでもなく、模試の判定はいつもAだったので受験のプレッシャーはあまりなかった。大学に入ったら、プロになれるメンバーを見つけてバンドをやろう。
望むことはすべてがうまくいく、と本気で信じていた。その日も、よく覚えていないが彼女からなにかもらったとか、いいことがあったのだと思う。風呂に入って頭を洗いながら、やっぱりなんでも思い通りになるなと考えていた。自分には使命があって、この先のことはすべて決まっている。それに従って生きるだけで、一生すべてが思うままに手に入る。
そのとき、わしゃわしゃ髪を掻く頭の中で声が聞こえた。
「ねえそれ、楽しいの?」
実際にはもちろんきいたわけではなくて、ふと思っただけだ。その瞬間、頭が混乱した。望んだことがすべて手に入る人生を送ることについて真剣に考えたら、猛烈に怖くなってきた。無敵モードのゼビウスみたいなものだ。最初からうまくいくとわかっているならぜったい楽しくない。まだあと60年も生きないといけないのにそんな人生は嫌だと思った。ちょっとパニック気味になって風呂からでたのを覚えている。それからしばらくはひどく落ち込んだ。
そして数ヶ月後に大学の受験をした。結果は、落ちた。100%受かるはずだった大学の不合格通知を見て、ショックを受け、同時にちょっと笑えてきた。
あのとき風呂場で頭を洗いながら天の声を拒否しなかったら、大学に受かっていたのかどうかはよくわからない。ただ、こう思った。自分の人生がすべて決められていたとしても、先のことがわからないのなら、生きていく価値はあるんだな、と。そして万能な人生を明確に拒絶したことで、自分の万能感は消えた。
大学は後期日程で合格した別の学校に入学した。それから10年くらいたって、こんな言葉に出会う。バガボンドで、沢庵和尚が武蔵に向かっていう台詞だ。
武蔵、実は最近声を聞いた
それによると、わしの、お前の生きる道はこれまでもこれからも
天によって完璧に決まっていて、それが故に
完全に自由だ
読んだとき、ああ、これは受験に落ちたときの感覚と同じだな、と思った。バタフライ効果や量子論の話がしたいわけじゃない。沢庵の意図もほんとうのところはわからない。それでも体験したものとして、この言葉には強く共感できる。生きる道は、流れに身を任せて決めればいい。まわりの音に耳をすましていれば、出会ったものがすべて点と点になる。
今は自由でとてもうれしい。
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