予定だとそのみんなが裸になって、年取った女の人が映画に撮るわけ

大学1年生のとき、朝いつものように造形の授業を受けるために教室にいったら、部屋中のカーテンがすべて閉められてあった。今日はオイルバーでなにか描くということだけ伝えられていたので、わたしたちは真新しいオイルバーを広げて床にすわり、先生がくるのを待っていた。しばらくすると先生は白いガウンをまとった女性を連れて現れて無言で女性をわたしたちの前に立つよう促した。女性は化粧っ気がなく、髪も染めておらず、若くもおばさんでもなかった。女性は我々には関心がないというように無表情でガウンを脱いで全裸でわたしたちの前に立ち、ポーズをとった。どんな絵を描いたのかはまったく覚えていない。覚えているのは、隣に座っていた学生が全身を青に塗っていたことと、陰毛を描くのを戸惑ったことだけだ。その後も何度か、ヌードデッサンの授業があった。ヌードデッサンの後は決まって材料力学の授業だった。断面二次モーメントの計算をしながら女性の裸を思い出したりはもちろんしなかった。

先日、丸の内の三菱一号館美術館でバルテュスの写真展を見た。館内は女性客やカップルが多かった。展示されている写真は掛け値なしにどれも美しかったけど、眉をひそめる人もいるだろう。わたし自身も、涼しい館内を歩きながらやましいことなどなにひとつないという顔で写真を眺めていることに軽い背徳感を感じた。

BALTHUS: The Last Studies at Gagosian Gallery 976 Madison Avenue, New York

芸術かわいせつかという論争はいつの時代にもある。最近だと日本で女性芸術家が逮捕されたという事件や、愛知県の美術館でゲイの男性が裸で写っている写真がわいせつにあたるとして一部を布で覆い隠すということもあった。記事によると、警察に匿名の通報があったのだそうだ。こういうときは、いつも、芸術なのかわいせつなのかという議論がくりひろげられる。裸のマハは裁判にかけられ100年近くも美術館の地下室に封印された。ゴヤは美しいものを守るため、そのカモフラージュのために着衣のマハを描いた。

わたしは、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」もナボコフの「ロリータ」も大好きだ。もちろんどちらも優れた文学作品として評価されているが、正直そんなことはどうでもいい。芸術かどうかの判定など無意味だ。芸術だからいいとか猥褻だから悪いというものはない。エロ漫画が芸術だと認定されたからといって、誰もがエロ漫画を見たくなるわけではない。村上隆はよくて永井豪は悪いはずがない。

愛知で警察に通報をした人は自分が不快に思ったから、こんなものが存在するのは許せないと思ったのかもしれない。それをこれは芸術だからいいんですといっても納得しないだろう。一方で、表現の自由は憲法によって保障されている。美術館側に非があるとしたら、予めこの人に展示物の内容を知らせなかったことだ。

前回、正しさについての記事を書いた。

  • 幸福の最大化(美しいと思う人と不快に思う人がどれくらいいるか)
  • 自由の尊重(見たくないものを見ない権利が保障されるか)
  • 美徳の促進(社会道徳に反していないか)

この基準に従ってレーティングをして、見るかどうかは個人にゆだねればいいのだと思う。芸術かどうかという基準は必要ない。

iPhoneのアプリでは、4歳、9歳、12歳、17歳以上というレーティングがある。アーティストがデッサンをするときに使われる、3Dで人体ポーズを表示するアプリがあるが、これは女性モデル男性モデルともに、12歳のレーティングになっている。芸術かどうかは関係がない。ちなみにiPhoneではポルノや暴力的とみなされたアプリは公開することができないがこれはAppleのブランドとかイメージ的なものだろう。

ArtPose

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  • shawn ogle
  • 辞書/辞典/その他
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芸術は特権ではない。ただ70年代にセックス・ピストルズを理解できることが特権であったように、芸術を愉しめることは特権であってほしい。

ロリータ (新潮文庫)

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正義の対義語は不義なんだ。だけど世の中には正義の味方しかいない

ブレイキング・バッド SEASON 1 - COMPLETE BOX [Blu-ray]

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Huluでブレイキング・バッドというドラマを見ている。海外ドラマはこれまでひとつもまともに見たことがない。ロストも24もプリズンブレイクも最初の2話くらいで挫折した。ブレイキング・バッドはほとんど毎日見ていてシーズン3の途中まできた。1話冒頭の、パンツ一丁でガスマスクをかぶったおっさんが猛スピードでトレーラーを運転しているシーンからして並のドラマではないことがわかる。アンソニー・ホプキンスやステーブン・キングが絶賛したというのも納得できる。ブレイキング・バッドのいいところは、オカルトと国家陰謀が出てこないことだ。ヒットするドラマはたいていそのどちらかだけど、わたしは好きではない。幽霊もテロリストにも出会ったことがないせいかもしれない。

主人公の化学教師は、癌の宣告を受けたことをきっかけに覚せい剤の製造を始める。売人の元締めを地下に監禁して殺したり、覚せい剤の原料を盗んだり、弁護士と組んでマネーロンダリングをしたりする。タイトルのとおり、平凡な高校の教師だった男が、家族に金を残すために道を踏み外す、というのがストーリーの軸になっている。

前回、不正をするリスクはどんどん上がるからまっとうに生きたほうがいいというような記事を書いた。ここでいうリスクとは、逮捕されるとか、職や社会的立場を失うというようなことだ。ブレイキング・バッドの主人公の場合は、余命が残されていないから、これらのリスクはリスクではない。避けなければならないのはお金を失ってしまうことだけだ。物語の主人公というのは、基本的に正しいことをする。正しいことをしなければ観客は共感しないからだ。主人公の行動や考え方が共感されない物語というのは物語として成り立たない。だから何を考えているかわからない猫が主人公の物語みたいなのは滅多なことがないかぎり作られない。

では正しいこととはどういうことか、と考えてみようと思う。がそんな哲学的な難しいことをひとりで考えるよりも、サンデル教授に聞いたほうが早いのでネットで調べてみた。あれだけテレビで正義とはなんぞやみたいな講釈をしてきたんだから、たぶんわたしが30分考えるよりも深い結論に至っているに違いない。そうじゃなかったらただの議論好きのおっさんだ。サンデル教授によると、正義とは、幸福、自由、美徳の3つの価値観から展開されるものらしい。わたしの解釈も勝手に付け加えてみる。

幸福の最大化

最大多数の人が最大の幸福を受けられるということ。

= 合理性を追求すること。みんな幸せになれるのは正しい。

自由の尊重

人びとが強制を受けたり行動が制限されたりしないこと。

= 多様性を認めること。自由に選択できることは正しい。

美徳の促進

道徳的、人道的、宗教的な観点への配慮があること

= わびさびを重んじること。かっちょええのは正しい。

これらは時には相反する価値観であるため、どの価値観を優先するかは配分は時と場合によるし、視点をどこまで上げて考えるかという問題もある。地球人にとって正しいことでも、火星人にはそうでないかもしれない。まったく逆のことがどちらも正しいということもあり得る。それでも、法律やルールというのは(建前上は)正しくなければならないものだから、このような価値観のもとに制定されるはずだ。つまり、基本的にはルールに従っておけば正しいことから大きく足を踏み外すことはないはずだ、たぶん。

正しくないことをすると、罰を受けることがある。では、正しいことをするとどんないいことがあるかというと、共感してくれる人からの協力を得られたり、幸福感を得られたりする。ブレイキング・バッドの主人公には、罪の意識はない。自分が正しいことをしていると信じている。実際は覚せい剤を買った人が犯罪を犯したり、オーバードーズで死んだりしているはずだけど、そこには触れられていない。それを除けば、主人公は刑務所に行くこともなく、家族にお金を残すことができる。きわめて合理的な行動で、周りの人の自由を奪ったりもしていない。生徒からもいびられる冴えないおっさんが家族のために麻薬王になっていく様はある種の美徳を感じたりもする。

人は誰もが正しいことをしようとしている。でも自分の行動が正しいかどうか自信がもてないこともある。仲間を裏切るような行為をするとき、これはモンキー・D・ルフィならやるだろうかと考えてみればいい。号泣した議員は、カラ出張をするときに島耕作ならやるだろうかと考えればよかった。ただ、これはウォルター・ホワイトならやるだろうかと考えるのはやめておいたほうがいいかもしれない。

今日もブレイキング・バッドの続きを見る。

実をいうと、きみを監視してたのはジャグジーじゃなくておれなんだ

エネミー・オブ・アメリカ [Blu-ray]

エネミー・オブ・アメリカ [Blu-ray]

エネミー・オブ・アメリカを見るまでもなく、国民の監視というのは政府がやるものと相場が決まっている。

先日、ドライブレコーダーが売れているという記事を読んだ。すでにタクシーの搭載率は5割を超えているらしい。わたしはタクシーについているのは客がトラブルを起こしたりしないように犯罪抑止の目的で搭載されているものだと思っていた。ドライブレコーダーの本来の用途は、車両前方の映像を常時記録して、交通事故が起こったときに正当性を証明するために使うものらしい。最近のタクシーは前方と室内の2台のカメラがついているものも珍しくない。事故を起こしたときに言い逃れできないため、ドライバーの心理的な事故防止にもつながるのだそうだ。

そのドライブレコーダーが、個人用途として普及が進んでいるという話だった。Wikipediaによると2008年の個人用途での普及率は0.1%と書かれてあるが、最近のこちらの調査では5.9%、とある。

個人用途で普及している理由としては、価格が安くなってきたことに加えて、映像を常時記録することでライフログの用途に使うユーザーが増えているのだそうだ。確かに、Youtubeにはドライブレコーダーで記録したさまざまな映像がアップされている。この前は、民間人のドライブレコーダーが撮影した映像が誘拐事件の犯人逮捕につながったというニュースをやっていた。

気づかないうちに撮影された自分の写真がFacebookにアップされているというようなことは日常的にある。キリっとした写真ならまだいいけど、だいたいは飲み会での醜態だったりする。わたしも含め、誰もがSNSのネタに備えてスマホをポケットに忍ばせている。目の前でおっさん同士が喧嘩をはじめようものなら、正義感の強い人々が容赦なくスマホを向けれてYoutubeにアップする。すでに、ドライブレコーダーと同じように、腕につけて音声を常時録音したり、首からぶらさげて常時映像を記録できるデバイスも売られている。それは前に言ったとか言わないとか、金を返したとか返さないとかいったトラブルがなくせるなら便利そうだ。もうすでに、自分の発言や行動は誰かが記録していると考えたほうがいいかもしれない。

常時録音、必要時だけ保存できるウェアラブル機器「Kapture」 « WIRED.jp

Home - Autographer - The World's First Wearable camera

前に秘密の価値というエントリーを書いた。個人の行動が常時記録されている社会においては、秘密を持つリスクが高くなる。不正をしようとしても、誰がその証拠を記録していつ暴露されるかわからないからだ。だから秘密を保つコストが高くなり、秘密を持つのはばかばかしいという風潮になる。不正や後ろめたいことをせずにまじめに生きているほうが、リターンを得られる可能性が高くなる。一方で、コストを払ってでもどうしても守らないといけない秘密を守りたいという需要が増える。

それから、誰もが行動を記録する側の人間と、行動を記録される側の人間にわかれることになる。 記録する側になるのは、危機管理の意識が高い人や、正義感の強い人、自分の行動をライフログとして残しておきたいと思うようなタイプの人だ。犯罪や不正をしようとしている人は、証拠が残ると困るので、自分の行動を記録したいと思ったりしない。だからそういう人々は、誰かから行動を記録される側にまわることになる。有名人もこちらに入るかもしれない。有名になって行動が制限されるのを防ぐために、あえて有名にならないという選択肢をとる人が増えるだろう。

人類総ケイドロ時代はすぐそこに迫っている。

欲しいものを3ついえ、そう石仮面はいった

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小学生のころ、コロコロコミックとかジャンプとかの漫画雑誌にはかならず通信販売の広告が掲載されていた。あるとき、わたしは広告がうたう商品の魅力に惹かれて、毎月祖母からもらっていた1500円の小遣いをため、こっそり商品を購入することにした。当時はお金を支払うのに、料金分の切手を購入して送るのが一般的だった。それを知らなかったわたしは現金をそのまま封筒に入れて送ったら、家まで戻ってきて祖母に一発で見つかった。祖母は特にとがめるでもなくそのお金で切手を買ってきてくれた。それに味を占めたわたしはそれからも何度か通販に手を出した。そのたびに祖母にあんたまたしょうもないもん買うたなとたしなめられることになる。

当時通販で購入したのはこんなアイテムだった。

椰子の実が採れるブーメラン

今だとブーメランというと競技用の十字型で軽いものを想像するが、これはターザンが使うような、V字型のでかくて重いやつ。説明書には思い切り投げると戻ってくると書いてあったが、そんなものを思い切り投げる場所や勇気はなく、戻ってきたとしても怖くてぜったいキャッチできない。そもそも近くに椰子の木なんかなかった。

つけるだけで自転車が2倍速くなる玉

モーターが内蔵されたような機械仕掛けのものを想像していたが、届いたのはピンポン玉くらいの大きさのふたつの鉄球だった。後輪のスポークに取り付けると玉の重みで遠心力がつき、一度スピードができると速度が落ちにくくなる。その分ペダルは重くなるし決して2倍速くなるわけではない。「ハイピッチ」という名前だった。

空手の達人になれる板

それを壁にとりつけて毎日こぶしで殴っているだけで筋力が増して空手の達人になれると書いてあった。なんかすごいマシンなのだろうと思っていて、見たらなんか筆箱くらいの大きさのゴムの板に壁にくくりつけるひもがついていて、特別変わったしかけがあるわけではなかった。空手の達人になりたかったので壁にとりつけて数日間殴ってみたが達人にはなれなかった。空手を習ったほうがよかったのかもしれない。

一瞬で人を倒せる本

これを読むだけで一瞬で人を倒せるようになるという広告に惹かれて購入。10ページくらいの薄い本で、もはやなにが書かれてあったのかも覚えていない。こどもながらなんとなく、これをやっても人は倒せないなと冷静に思ったのは覚えている。

歯が真っ白になる歯磨き

別に虫歯があったわけでもないのになぜそんなものを買ったのか不明。こどものときからぱかぱか煙草を吸っていた兄が買えといったようなきがする。使ってみたがもともと歯が汚いわけではないので効果はよくわからなかった。これは今でもたまに売ってる。

忍者の手裏剣

鉄でできた手裏剣。伊賀忍者用と甲賀忍者用があった。投げたりするとマジで危ない。一時期本気で忍者になろうと思って濡れた半紙の上を走ったり風呂に潜ってストローで息をする練習をしたりした。あと柿の種を植えて毎日その上を飛び続けていると、それが背丈くらいまで成長したころにはものすごいジャンプができるようになると本に書いてあった。毎日植えた場所を飛んだが芽すらでなかった。

寝ていてもテレビが見られるメガネ

説明文には離れた場所にあるものが見られるというようなことが書かれていて、遠くに設置したカメラからメガネに映像が送られてくるようなハイテク機器を想像していた。悪用厳禁の文字に胸が躍った。これは一番高くて、確か5000円くらいした。届いたのは単なる斜め向きに鏡が取り付けられたメガネで、かけると真上が見えるというものだった。なんのカモフラージュもないので、変なメガネをかけているのはバレバレだ。さすがにこれを見たときはショックで手が震えた。大人になってからクライミングのショップでこのメガネが売られていて、実はビレイグラスという、立派な商品だった。クライミングをするときに、下でロープを持つ人が長時間見あげなくても済むように使うものだ。当時は日本にクライミングをする人などほとんどいなかったから、海外でこれを見つけた業者がわたしのようなアホなこどもに売るために輸入したのかもしれない。

当時は、他にもブルーワーカーとか、ぶら下がり健康器とか、おもりの入ったリストバンドとか、健康器具がなぜかたくさん通販で売られていた(今でもそうかもしれない)。購入したものを見ればわかると思うが、わたしは体を鍛えたいわけでも健康になりたいわけでもなかった。広告が載っている漫画の主人公みたいに一瞬で人を倒したり、ブーメランで椰子の実を採ったり、すごいスピードで自転車に乗ったり、遠く離れた場所のものを透視したりしたかっただけだった。通販のページに載っているのはドラえもんの道具みたいにきらきらして見えた。今だったら悪魔の実に見えたかもしれない。そんなものが切手で買えるという幻想は何度も打ち砕かれた。クーリングオフという制度の存在すら知らなかった。

わたしは小学生のときに、通販の商品に添えられたきらきらした宣伝文句が嘘であることを学んだ。学ぶための費用はこどもにとっては大金だったが、今思えばたいしたものではなかった。おかげで大人になっても、ビデオのモザイクが消えるアダプターとか幸運を呼ぶ壺みたいなものを購入せずに済んだ。

今はどんなものであれ、購入するまえに、それがどんなものなのかほぼ正確に想像することができる。だけどときどき、なんだかすごそうだけど見たらがっかりするほどしょうもない映画を見たりする。そんなときはまただまされたな、へへみたいな気分になるけど、決して鏡のついたメガネが届いたときみたいに打ちひしがれたりはしない。

本当は、どこか知らないところで、小学生のころに欲しかったようなきらきらした道具が売られていることを願っていたりする。

たとえばこんなところに。 https://www.rakunew.com/

従業員という記号が存在しない世界

こちらのブログを読んだ。

15分間の罵倒: いろいろにっき。

私がそれを浴びせられても心がこわれなかったのは、それは私っていう人格のために選ばれた罵倒じゃなくて、「従業員」っていう記号に向けられた罵倒だったからねー。

こちらのブログの方にまつわる議論がいろいろあるのは置いておいて、あえてこの内容が事実だとしてみる。とても大変だっただろうと思う。そして日本人はこの手の話が好きだ。横暴なおじさんクレーマーから放たれる呪詛を受け流すのは並大抵のことではない。たとえ自分個人の人格に向けられているのではないことを理解していたとしても、15分も罵倒を受けながら冷静でいるのは難しいことだ。同じフロアのサポートデスクに勤める聡明で沈着な女性たちが打ちひしがれているのを、何度も目にしたことがある。

このブログを書いたのがおじさんであろうがそんなことはどうでもよくて、大事なのはこの話には共感を得るポイントがいくつかあるということだ。同時に、この話は日本以外では理解されないだろうなと思う。店は売り上げと無関係な作業に給料を支払い、客は店に対する具体的な要求をなにもすることなく、無駄に時間を費やしたことになる。

日本人は、職についた瞬間から、その職を代表する一員として役割を演じることが求められる。コンビニの店員はコンビニの店員を演じるし、航空会社のCAはその役割を演じることが求められる。そして客のほうも、コンビニというものの一員としてその人を認識する。マクドナルドのスタッフの名前や顔をいちいち覚えていたりはしない。CAはみな同じ動作で非常設備の説明をするし、髪型や話し方も似ていて見分けがつかない。ユナイテッドエアラインのCAは人種も性別も年齢もさまざまで、機体が飛び立つまで思い思いにおしゃべりをしている。あくまでも個人として仕事をしている。社員教育が行き届いていないといえばそれまでだが、彼らは自らの職務範囲と権限を常に意識して業務を行っている。だから職務範囲でないことはいっさいやらないし、権限のないことはやってはいけない。客のほうもそれを理解している。先日、日頃お世話になっている人がアメリカに移住した。荷物の搬入を引っ越し業者に頼んだら、マンションの管理人がアポイントがないとして頑として譲らなかったという。そんなときは管理人といくら話をしてもだめで、管理人を管理している側と直接交渉しないといけない。例外処理をする管理人は管理人として失格ということになる。運転免許を取りにいったら2時間並んだすえに外国人向けの書類が一枚足りないといわれて追い返されたそうだ。苦痛はコンビニの客の比ではない。アメリカはクレーム社会だとよくいわれるが、クレームとは末端の従業員を罵倒するということではない。クレームというのは、しかるべき窓口に対して、相手に非がある根拠を明確に示し、具体的な要求をするということだ。

最近、ニューヨークヤンキースの田中投手が自身の故障について謝罪したことが話題になった。アメリカ人はなぜ謝罪をしたのか理解できなかったらしい。田中投手はニューヨークヤンキースという共同体の一員として、役割を与えられているにも関わらず期待に応えられなかったことに対して謝罪をしたのだと思う。日本人の感覚としては不思議なことではないが、アメリカ人はニューヨークヤンキースを代表する人間として田中投手を見ているわけではない。ただひとりの才能のあるピッチャーが故意でもなく怪我をしたことに対して謝罪する様子は、奇異なものに映る。

先日、サンフランシスコにいったとき、協業の打診をしている会社を訪問した。本当は同行していた上司といっしょに行く予定だったが、急遽上司に予定ができてひとりで訪問することになった。その会社を訪問するのは初めてだった。アポイントをとっていた担当者から、あなたはなにをしに来たのかと尋ねられ、テクニカルな問題を解決しに来たのだと答えた。具体的な契約についてはあとで上司とコンタクトをとってほしいと告げると相手の態度が変わって、技術の話をそそくさと終えるともう帰ってほしいといわれた。せっかく日本から来たのに失礼だなと思ったが、帰り際は非常にフレンドリーに入り口まで送ってくれたから悪気はないのだとわかった。相手はわたしを会社の代表として見ているのではなかった。一介のプログラムマネージャーの権限を見抜いて対応をしただけだった。日本企業は権限があいまいなので、末端のエンジニアであっても対応が取引を左右することがある。

従業員という記号が存在しない世界でどうふるまうか、考えてみるのも悪いことではない。

美術館にいったらどうするか教える

3連休だ。夏は美術館にいくのがおすすめだ。美術館はクーラーが効いていて涼しいし、混雑もしていない。料金も1200円くらいでライブを見るより安い。わたしはたまたま夏休みで今日からまた沖縄にいくんだけど、そうでなければ新美術館のオルセー展か、六本木ヒルズのガウディの展示会を見に行っていたと思う。というか帰ったら行こう。

絵画に興味がない人に美術館の楽しさを説明するのは難しい。まわりにも美術館に行くのが趣味だという人はあまり多くない。わたしも20歳くらいまでまったく興味がなかった。結婚して京都に旅行に行ったときに、時間をつぶすためにたまたま立ち寄った美術館で印象派の展示会をやっていた。そこでルノワールの、「ピアノを弾く少女」を見た。ルノワールというのは日本橋あたりでサラリーマンがたむろする喫茶店の名前だというくらいの知識しかなくてそれはルノアールなのだけどわたしは画家の名前はルノアールだと思っていた。ルノワールが描いた白い少女の肌の色は絶妙で、垂れた金色の巻き髪からは幸福さが溢れていた。なるほどこれは美しいものだなと思った。それから国内の美術展を見て回るようになった。鮮烈だったのは上野のプーシキン展で見たマティスの金魚だった。わたしは1時間近く同じ絵の前に立っていてそれでも帰るときに後ろ髪をひかれた。海外に出張に行ったときも、時間が許す限り美術館を訪れるようにしている。ホーチミンや上海にも美術館があってそれなりに趣のある作品が展示されていた。サンフランシスコのリージョン・オブ・オーナー美術館もよかった。

日本の美術展にいくと、たいてい入り口のところに行列ができている。不思議なことに、出口に近づくにしたがって混雑は少なくなる。わたしはだいたい、入り口近くの作品はすっとばすか、興味がありそうなものだけを軽く見ることにしている。美術展は並んで最初から順番に見ないといけないというルールはない(はずだけど違っていたら教えてほしい)。入り口近くのものは習作とか小粒なのばかりなのでそんなにまじめに見なくてもいい。あと、音声の作品ガイドみたいなのを借りられるところが増えているけど、わたしは借りたことはない。あんなものをつけていると邪魔だし、絵を見るうえで作品の背景を知識として得ることが重要だとも思わない。ただ聞きたい人は借りればいいと思う。

普通はひとつの展示会で、目玉の作品というのがひとつふたつある。そういうものは人気があるので、絵の前に行列ができる。近くで見たい人は行列に並ぶことになる。じっくり見たい場合は行列の邪魔にならないように、少しうしろで立ち止まって好きなだけ見ていればいい。好きな絵の前に立っていると、おなかのあたりがぽかぽかと暖かくなってずっとその場に立っていたくなる。この感覚は音楽を聴いているときとも似ているが、また独特なものだ。幸せな時間だな、と感じる。

せっかくなので独断で一度実物を見て欲しい作品を紹介してみる。

ドガ The Star

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バレリーナの作品が有名。2010年に来日。

カリエール Meditation 1890

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あまり有名ではないけどモノクロ主体の濃淡で描く画風が特徴的で大好きな画家。2006年にカリエール展があったけど残念ながら行けなかった。上野の西洋美術館に常設している作品がある。

マネ Berthe Morisot with a bouquet of violets

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モネじゃないほうの人。2010年に来日。

モディリアーニ Portrait of Jeanne Hebuterne with her Left Arm Behind her Head

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印象的なスタイルの人物画を多く残している。2008年に国立新美術館でモディリアーニ展があった。

バルテュス The Golden Years

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バルテュスが描く少女と猫はみな不機嫌そうで、みな美しかった。2014年来日。京都では今個展やってるはず。20世紀最後の巨匠と呼ばれて2001年に亡くなった。

フェルメール The Girl with a Pearl Earring

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巨匠中の巨匠。ふだんは1800年代後半の絵ばかり見るんだけど、この人だけは別格。2012年に来日。これも行けなかったのが悔やまれる。

ルノワール Mlle Irene Cahen d'Anvers

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2010年来日。もうルノワールだけでごはん3杯食べれる。息子も映画監督として作品を残している。若いころはこんな絵を描いていたのに、晩年は太った女性ばかり書いていたのはなんか考えさせられる。

絵の傾向というか対象が似ているのはたまたまです。

未来を予想するということ

photo by tsevis

ずっと前に、雑誌でスティーブ・ジョブズのインタービューを読んだことがある。まだAppleに復帰する前のNeXTにいたころだから、1990年代後半のものだ。内容はうろ覚えだが、"Post-PC Device"、つまりパソコンの次のデバイスはなにかという話題だった。当時はマイクロソフトが発表したWindows 95が爆発的に流行して、インターネットが家庭に普及し始めたころだった。Appleの製品は一部のマニアかデザイナーくらいしか使っていなかった。ジョブズはそのインタビューで、家庭に据え置くボックス型の、インターネットテレビのようなものが主流になるのではないかというようなことを話していた。当然のことながら、iPhoneやiPadのような携帯情報端末の話題はなかった。ジョブズはそれからAppleのCEOに復帰し、iPhoneが発売されたのはインタビューから10年たった2007年のことだ。その後、iPadが発売された2010年に、ジョブズはPost-PCの時代が到来したことを宣言した。インターネットテレビについていえば、Apple TVやChromeCastのようなそこそこヒットした商品が生まれているものの、成功しているとは言いがたい。ただ、ジョブズはAppleに復帰するずっと前から、PCの次のデバイスがなにかということを考え続けてきたことがわかる。

Steve Jobs proclaims the post-PC era has arrived - TechRepublic

ジョブズのインタビューが行われたのと同じころ、駆け出しのプログラマーだったわたしは、会社の同僚と、10年後に流行するテクノロジーはなにかということを話し合ったことがある。わたしは、PalmやZaurusみたいな携帯情報端末(PDAと呼ばれていた)が流行る、といった。当時のPDAはモノクロの液晶画面をスタイラスで操作するおもちゃみたいなもので、日本語の入力さえ満足にできなかった。同僚は、PDAは大きすぎて車社会では使えるものの、電車通勤の日本では流行らない、携帯電話がもっと高機能になると思う、といった。結果的にいうと、どちらの予想も当たっていて、どちらの予想も外れていたことになる。PDAが普及しそうだということが分かっていても、携帯電話が高機能になりそうだということが分かっていても、誰もがスマートフォンを持つ未来を予想するのは意外と難しいものだ。スマートフォンはPDAみたいでもあり携帯電話みたいでもあるが、本質的にはどちらとも違う。PDAに電話機能をつけたものの完成形はWindows Phoneであり、携帯電話を多機能化したものはBlackBerryだ。どちらもすでに市場から姿を消している。

スマートフォンをスマートフォンたらしめているのは、タッチインターフェイスだったりアプリマーケットだったりするのだけど、どちらもPDAや携帯電話の文脈の延長線上にはないものだ。でも、スマートフォンが発明されるであろうことを予想できなかったことは、恥ずかしいことではない。スティーブ・ジョブズのような業界の先端にいる天才でも予想できないことを、かんたんに予想することはできない。せいぜい、Appleの株を買って儲けた人たちがいるくらいだ。

それでも、近い未来を予測して行動することはそれなりに意味がある。これからなにが流行するかわかっていれば、その分野に投資をしたり、就職したり、関連のビジネスを行うことで、そうでないことをやるよりも成功する可能性が高くなる。ただ、その仕事をやりたいかどうかは別の話だ。誰もが白いたい焼きを売ったり、ソーシャルゲームを作りたいわけではない。ただ、これから地方で本屋をやりたいという人はそうとうに工夫して儲かる方法を考えないといけない。

モバイルの次はウェアラブルデバイスの時代だといわれている。それがどういうものになるかはわからないが、国内メーカーが販売するスマートウォッチのようなものはさっぱり売れないだろうと思う。それは今のモバイルデバイスの延長線上にあるからだ。前に、現代は所有するコストが高いので、多くの商品がレンタルかサービスでまかなわれるようになると書いた。この流れは当分とまらない。もうすでにどんな場所であっても、無線でインターネットにつながることができる。飛行機でもWiFiが使える。無線通信はもう当たり前の技術になった。技術的にはあらゆるデバイスが無線でつながることができる。そうすれば、身の回りにあるさまざまなデバイスとスマートフォンとを無線で接続してサービスを受けることができる。

先日、世界初の完全にワイヤレスのイヤホンが、Kickstarterで資金調達したというニュースがあった。PDAからスタイラスが消えたように、今まで当たり前にあったものがなくなったということだ。未来へのヒントはこのへんにある気がしている。

Are the Earin the world's first truly wireless in-ear headphones? | Digital Trends